11月 08

 書が好きで 子どもの頃から筆に親しんでいた。 好きが高じて 筆耕(ひっこう)の職に就いた時期もある。

 

「筆耕」とは 

①写字などにより報酬を得る事。②文筆により生計をたてる事。とあるが小生の場合は 葬儀・婚礼時のいわゆる看板文字書きだった。

 勤めた先は 割と大きめの花屋で 婚礼部門と葬儀部門があった。 婚礼時に書く仕事は 土日祝の前日までに仕上げる事が一般的だが 葬儀の場合 友引(ともびき)前日以外は ほぼ毎日書いていた。なぜなら友引の日は 火葬場が休みで 書く仕事が無いのだ。

 

 書く対象物の大きさは 花屋の店先で注文を受けた 花束に添える名刺ほどのカード書きから 葬儀会場入口に設置される 20尺(縦約6m・横約1m)の大看板に 棺の蓋や骨壺もあった。 何とも往生したのは 連絡の不徹底で 御遺体が安置された棺の蓋に 書かなければならなかった時である。 既に祭壇に飾られ 親族も揃った式間際 了解を得て蓋を開け 全員の注目を浴びながら書いた時には 生きた心地はしなかった。

日頃 書く量が一番多い物は 祭壇の両側を飾る 生花(菊の花籠)に据え付ける名札で 多い時は 日に400枚以上書いた時もある。 他には 葬儀場所を指示する道案内の 通称「捨て看板」に 珍しいものでは 米粒にも筆書きした。

 筆耕は 急な対応にもその場で対処する為 お通夜の式場に 筆と墨を持参し出向く。

お通夜開始が夕方18時直前になり 「付け花」と呼ばれる祭壇に飾る花籠が 方々の花屋から次々と会場に届けられる。 名札には送り主の名前が記されてはいるのだが その文字は千差万別で 一緒の祭壇に飾ると文字が逆に目立ち 統一させるために 書き直す必要が出てくるのだ。  身内親族にとって葬儀式とは 時間の流れが尋常な時ではない。 人間の研ぎ澄まされた 悲しみの五感が極端に鋭くなっている。 式に携わる側の人間も 肌で感じる為 表情感情を出来る限り抑えるが お通夜開始時刻寸前になって「付け花」の文字を書き変える段階では 一分一秒を争う忙しさだ。 それまで冷静に振る舞ってきた人間が 一転して慌てだす瞬間を幾度となく見てきた。 「忙しい」という文字が 心を亡くすと書く意味が はっきりと分かる瞬間でもあった。

 

「筆耕」の日常は至って平凡 ただひたすら筆で文字を書く。 その繰り返しの日常で思いついた事があった。  

 長年筆耕を続けてきた人間であっても 縦書きで何枚も文字を書いていくうちに 字列が左右どちらかに傾いてしまう。 歪みを防ぐ為「あたり」と呼ばれる枠点を付け 書いていくのだが これでは 急ぎの時など時間がかかる。 その時 小生は考えた。 片目(利き目)を閉じて書いてみたらどうだろう。  周囲の奇異な目も気にせず 片目書きに没頭した。 これは 人には「利き腕・利き足」があり「利き目」もあるはずだから きっと利き目で見る力の方が 強いはずだと考えたのだ。 小生は右目が利き目なので 両目で見ていても 右目で強く見ている為に 文字は左に歪んでしまう。よって左目だけで書く訓練を始めた。 最初はぎこちなかったが 慣れると案外楽に書け 考えていた通り何枚書こうが 文字が歪む事はなくなった。 当然「あたり」の枠点を付ける事もなくなり 他より俄然書く速度が増していった。

 

 この利き目を閉じて書く事を体得したら 不思議な事に 丸い円を正確に描けるようになったのには驚いた。 丸く描いた円に コンパスを当て確認すると 完全な円形を成している。 試しに正三角形を書く練習を続けたら 見事にその形を正確に描けたのだ。 この事象は かつて古代ピラミッドを造った人が 当時高度な測量技術を持たずして 正確な正三角形を創り出せた技ではなかったのか。 世界の七不思議の一つは 利き目を閉じる事により 成し得たのではないかと直感した。  一読された方…利き目を閉じる事など 時間は要するが 試してみる価値はある。

 

 ここに於いて 書き記しておきたい事は 七不思議を解く鍵だとか ピラミッドの測量技術の話ではない。 人には 利き腕・利き足・利き目があり 知らず知らずのうちに 人間の身体機能を 片方しか使わず生活している危険性を問いたいのだ。 人間誰しも楽な方を望む 利便性の追求は今後も 世界の文明に寄与するだろうが 最も難しい 人の意識を変えるヒントは 日常の何気ない行動の中にも隠されている。

「筆耕」時代の筆

「筆耕」時代の筆。

 米粒にも書く依頼があり その時使用した筆は 鼬(イタチ)の毛の筆を好んで使用した。 

当時試みた事は 棒に大筆を括り付け 立ったまま文字も書いた。 左手書きに両目を閉じて書くなど 今 思えば かなり破天荒な「筆耕」時代であったが 人間 自分に負荷をかけて訓練すれば 大抵の事は出来るものだ。 その時学んだものは 出来るまでやれば 必ず出来るという 単純な答だった。

8月 15

湊町に残りし井戸

 古く歴史のある港町で 海からは少し中に入っている。
かつては その地方の経済を左右していた程 町には活気が溢れていた。 毎年恒例の夏祭りでは 京都の祇園祭りを彷彿させる山車が繰り出し 黒山の人だかりがあったという。 特産品として 海から上がった魚を使い すり身にして油で揚げる「つけあげ」は絶品である。

 この湊町に91歳の重爺と85歳になる波江婆夫婦がいる。
二人は若くに所帯を持ち 三人の健やかな子に恵まれる。 家計を支えたのは 畑と米作りの水田に蜜柑山だった。
身体頑強な重爺は 冬でも夏でも 毎朝4時には起きて畑仕事に出る。 一仕事終えると 家に戻り朝御飯を済ませて 今度は蜜柑山へと向かう。 急傾斜な山肌を開墾 登り降りを繰り返し石垣を積み上げ 蜜柑の生育に苦心した。 骨身を惜しまず働くとは まさに重爺の姿そのものである。

 一方 長年寄り添う波江婆は 畑仕事を手伝いながら 町の「つけあげ」をつくる店に出た。
二人の家に行く度 この「つけあげ」が出てきた。 その味はどこのものよりの美味しく 忘れられない極上だった。
残念なことに 波江婆が働いていた店も 閉店してしまい その味も廃れてしまった。 

 
 二人が旅行に行くと云うので 市役所へ申請の手続きに付き添った。その帰り道の事である。
91歳にして身体頑強な重爺と 85歳 年老いても美しい波江婆が 口を揃えて云う。
「わしらは 後期高齢者か? 前期高齢者か? 日本には長寿という言葉があるだろう。 どうして 人をいたわる言葉を使えんのか!」

返す言葉は 無かった。

7月 26

路面電車のある風景

 一つ違いの妹 栞(しおり)は 姉の英(はるか)の先を早足で歩いている。 家から路面電車の始発駅まで続く 真っすぐな田圃の畦道。
二人は朝出がけに 何気ない事で言い争いをしていた。

○食卓・丸い卓袱台(ちゃぶだい)

英  「制服を着る前に 食事しなさいよ」
栞  「(むせて)うっ!」
    
    味噌汁の具を噴き出す栞。

英  「ホラ こぼした」
栞  「英姉ちゃんが 変な事云うから汚れたでしょ」
    
    慌ててスカートの吹きこぼしをふき取る。

英  「自分が悪いのに 人のせいにしないでよ」
栞  「もおー 今朝は早く行かないといけないのよ」
   
    普段着の英が 無言で食事をし始める。
    母は板場の炊事場で 黙って弁当を作っている。 
    背広姿の父は 娘たちの白いハンカチを 炭入り
    アイロンで皺を伸ばしていた。

 妹の栞は高校一年で バレーボール部に入部して間もない。 一つ上の姉とは同じ学校で しかもバレーボール部の先輩後輩にあたる。
県内でも有数の強豪チームは そこでのレギュラーの座を巡り 熾烈な競争があった。 

 上級生の練習は 授業が終わった放課後 存分に出来るのだが 入学して間もない新入部員たちは その時間はまだ球拾いしかできず まともな練習をするには 朝の授業が始まる前の僅かな時間を使うしかなかった。

英  「(高圧的に)制服は学校の誇りよ 汚すのは恥だからね」
栞  「(仏頂面で)そンなこと云ったって わざとじゃないもン」
英  「着替える前に 食事すればいいのよ」
栞  「急ぐのよ」
英  「慌てたって ろくな事にならないわよ」

    意地を張り合う二人の言い争いはきりがなく 
    居間でアイロンがけを終えた父が 見かねて
    二人の間にハンカチを放り投げた。

栞  「(むくれて)父さん ありがとう」

    と言い残し 慌てて玄関を後にした。 
    卓袱台には 母の作った弁当箱が二個並んでいる。

英  「しょうがない 持ってってあげるか」

 姉妹の通う学校には 連綿と受け継がれている三つの伝統があった。

1つ 挨拶をする時。 
 挨拶とは まず相手よりも先に行う事を基本とし 自身を相手に向けて立ち止まらせ お辞儀をするという慣習である。
その所作は何時いかなる時であろうと 一旦立ち止まり相手の目を見て行われる。 学校内での日常 教師に対しては勿論 部活動の先輩 来客者にもその仕草 立ち振る舞いの動作は行われ 充分に気を張っていなければ 叱責が飛ぶ。 
校内では声を出して挨拶されるが 校外で学校関係者に出会った場合には 立ち止まり黙礼だけのお辞儀だ。
 校内行事で 全体の朝礼が行われる体育館に 全校生徒が集まり学校長が壇上に上がる。その時 校長に対し正坐している全校生徒は 一斉に頭を垂れて深々とお辞儀をする。 その一糸乱れぬ美しい動作は 全員の呼吸が合わなければ成し得ない。 生徒数はゆうに1千名を超えている。

1つ 昼の清掃時間の時。
 昼食を終えた生徒たちは休憩後 校内外の掃除作業に入る。各々が教室・廊下・階段・通路・トイレ共有部分と学校周辺に散らばり清掃する。 清掃作業は極一般的だが 他と明らかに違うのは 清掃時お喋りしてはならないのである。いわゆる寡黙修練と呼ばれるもので 無言のうちに塵を掃き清めていく。 その時言葉は必要無く 淡々と一連の作業は行われていく。
いつもは賑やかな女子高にあって その時間だけはまったく静寂の時だ。 音はといえば 庭を掃く竹箒の音にトイレを水で流す音ぐらいで 生徒がいるにも関わらず深閑とした校内である。

1つ 別名が名付けられる。
これは運動部に限ったことで 先輩連中が入部したての新入生一人一人に 第一印象でその子に目指してほしい漢字一文字を付ける。 例えば素直に育ってほしいとイメージされると「直(なお)」となり その新入部員は本名ではなく「直(なお)」さんと呼ばれる事となり これが三年間続く。 栞に名付けられたの名前は「咲(さき)」であった。

○路面電車(車内)・夕暮れ
英  「(小さな声で)もう部活は終わったンだから 坐っていいわよ」
栞  「(無理して)いい 立ってく」
英  「じゃあ そのバッグ膝に乗せなよ」
栞  「(ためらいつつ)うん ありがと」  
    
    車内は帰宅帰りの乗客で満員に近かった。

○路面電車(車窓)・茜空を映す
    
    満員の中 老婆がよろけて 栞に当たる。

老婆 「(か細く)ごめんなさい」
英  「(すかさず)どうぞ 坐って下さい」
    膝に抱えたバッグを栞に渡し 席を譲る。
老婆 「ありがとうねえ」

○車窓
   海から聳える山に 夕焼けが紅く染まって。
                 
                       (終)

085

6月 07

 この土地の話を 少し記そう。
鎌倉時代 源頼朝に仕えた丹後の局。 頼朝の愛を受け二人の間に子が生まれるが 頼朝の御台所(正妻)政子の嫉妬を怖れ 丹後の局は遠く鎌倉の地より船と陸路を使い ここへ移り住んだという伝説が残る。 その時 丹後の局はこの辺りの景色が 鎌倉の地形に似ていることに驚いたそうだ。 実際この辺りには 鎌倉にある七社を分霊し祀った神社が方々にあり その内の一つ 社(やしろ)の名前は鶴岡八幡宮である。

 湯之元駅西側の踏切を渡り 「鶏の刺身屋」を過ぎ上へと昇る。 長く急勾配の傾斜が続く坂道は 歩く人の姿はめったに見られず たまに行き交う車も 下から登るスピードは止まってしまうのではないかと思うほどの坂道だ。 木々に覆われた斜面 その僅かな隙間から眼下の町を見下ろせ 風 薫り 光り降り注ぐ美しい眺めである。 曲りくねった急坂の道 長い一本道がようやくゆるやかになると 遠くの山並みまで見渡せる開墾畑が広がる。 右手には茶畑が見え始め 農免道路へ突き当たり右折する。日当たりのよい傾斜地に数個の集落が見える。 周囲を高い杉の木が取り囲み 小さな畑が点在している所に行男さんの家はある。

 玄関を覗くと 例の如く小振りの伝言板に 見慣れた『畑です』と書かれた文字。
来た道を後戻りして 行男さんのいる畑へと向かう。そこは杉の木立を伐採し 土を均(なら)して耕作し 先祖代々受け継がれた土地に行男さんはいた。 朝日と共に目覚め 昼間はこの畑で野菜作りに精を出し 日没になると家路に就く。 自然の中での営みを 生まれた時からここで続けてきた。
 
 藁を燃やし 霜除けの準備に没頭している背中から声をかけると「ほおーう ようやっと蔓棚が出来上がったあ」と云って 炭に塗れた顔を綻ばせた。 せっかく来たのだから 家でお茶でも飲んで行けと誘われ もう一度家まで戻る。
 日当りのよい玄関の前で待っていると 行男さんがお茶を持ってきて「これなあ 波布茶(はぶちゃ)だから 身体にいいぞお 何杯でも呑んでけ」と勧めた。
出されたのは ハブソウの種子で決明子(けつめいし)を炒った薬用のお茶 健胃薬にもなり解毒の効果もあるのだと教えてくれた。
ほのかな香りが香ばしく 行男さんは緑茶に混ぜて毎日飲むという。

 野良仕事をしない時には 火を熾(おこ)すための薪を採りに山へ入る。 集めた薪を束ね 山に生える金竹(きんちく)を削いで結び天秤にして担ぐ山鉾棒に突き刺して運び出す。 持ち帰った薪は 焚き上げ具合の用途によって分け 納屋にうず高く積み上げられている。近くには温泉もあるのだが 湧水を引いてきて その水で湯を沸かし毎日風呂に入っている。
「夜なあ 湯船につかって窓を開けると 月明りに照らされた山並みがさあ なンとも云えんのよお」としみじみと語ってくれる。

 庭を彩る木々に花々は すべて行男さんの手により丹精込めて育てられたものばかりだ。
その中でも 一際異彩を放つものは「おきな草」という可憐な花。 地面から僅かな所に花芽を付けて 白く柔らかな毛で覆われ 白髪の翁を想起させることから「おきな草」の名前が付き 絶滅危惧種に指定されているらしい。
「ほら そこンとこにも 芽が出てきよった」と指差す先 玄関へ入る坂道の石垣塀の下に「おきな草」花壇がずらりと並ぶ。綿毛に覆われた新芽は 節分を過ぎ暖かな陽射しに誘われ 小さな蕾を覗かせていた。

 「花芽がつくだろ そしたらこの子ら ほんの少しだけ背が伸びる。 でもな その花芽が出ても みんな下を向いたままなンだ。暖かくなって蕾が花開きだして ようやくこの子らは顔を上げる。 そこンとこが たまらなく意地らしいちゅうか たまらンねえ」
そう云うと行男さんは 「おきな草」の柔らかな綿毛を優しく撫で上げた。

 私は この行男さんの歩んできた人生はわからないが 一緒に居させて貰うだけで ありがたい。 生活の中に生きる知恵があり 物を生み出す創造力は 自然から学び取っている。
「なーンもお 慎ましやかな生き方だあ」と言い放つ行男さん その表情は実に清々しく また逢いたいなと思ってしまう。

軒下 おきな草
<軒下花壇に並ぶ 「おきな草」>

裏の白菜畑におきな草
<裏の白菜畑にも「おきな草」>

柴に山鉾棒を刺す
<金竹で束ねた柴に 山鉾棒を刺す>

金竹で結ぶ焚き付け用の柴
<金竹で結んだ 焚き付け用の柴 重さは一つ約10kgにも及ぶ。>

012
<束ねた柴は 山鉾棒を差し込み 天秤担ぎで運び出す。>

6月 04

 川へ石を採りに入った。 
沢の浅瀬に散らばる石 自然が創り出す小さな美しい造形美は さまざまな形を生み 色も多種多様で一つとして同じものは無い。 時間が経つのも忘れ石探しに没頭した。 当たり前だが 川の流れは川上から川下へ向かい 一定方向へ流れる自然のリズムは変わらない。 
 石探しに飽きて 沢の流れに置き石をして愉しんだ。すると流れが変わり 埋もれていた川底の見えなかった石は 新たな流れが出来たことにより澱みが浄化され 思いもよらなかった珠玉の原石が姿を現した。
 
 河原で手にした何でもない石を持ち帰り 砂で水蘚(みずごけ)を洗い落す。
尖っていた石は 絶え間ない水の流れによって削られ所々丸みを帯び 美山幽谷雄大な山を想起させる。 拳ほどの大きさの石に裂け目が入ったものは 鉄分を多く含むため全体が紅く まるで秋の紅葉に映える渓谷に現れた一筋の滝。 堆積していた時の変異で 屋根の軒下のような形が出来上がった石 そこに人形を置いてみると 「雨宿り」の物語が生まれる。  流麗見事な三角錐(さんかくすい)となった石の肌は霊峰を覚え その中に浮かび上がる姿は 紛れもなく達磨禅師が坐している。 
  
 偶然足もとにあっただけの河原石 足に触った幸運と巡りあった その川の名前は神之川である。

自然が創り出した色
<自然が創り出した色>

 自然が織りなす生命の神秘 その色 形はさまざまであり決して一つではなく それぞれの役割を持ち生きている。 埋もれた原石を見つけ出すのは 人がもつ意識を変えることだけで発見できる。

5月 26

畑より見る西都原古墳
<畑より見る西都原古墳>

 西都原(さいとばる)と読む地名であり そこには墓がある。 
南九州は宮崎の地 広大な土地に野菜畑が広がる中 古代縄文時代の巨大古墳群が点在している。 太平洋岸に面した平野部では一年の日照時間が平均2200時間以上もある地域 極めて太陽の光に恵まれた温暖な気候風土で 山があり川が流れ海も近い。 古代に生きた人々が この地を選び暮したのも頷(うなづけ)る。  
  この広々とした小高い丘の上に 西都原考古博物館が建つ。
足を踏み入れると 古代浪漫溢れる発掘された展示品のひとつひとつは 遥か昔古代人からの贈り物であり 器の小さな欠片であっても人が生きた証である。 そこには紛れもない生活があった。   さらに感動を増幅させる壁面に飾られた見事な詩文には 言葉を無くす程の感銘を受ける。
 そのいくつかを紹介したい。

『文化を 先進だとか後進とか 発展だとか停滞とか そうした尺度で計ってはならない。  それは人間の価値を計るべきでないのと同じことだ』

『現代の農業は 文化を生み出す力を失いつつある。  だから 今一度 文化を生み出す農業を 取り戻す必要がある』

『生命を食らうことは 生きることである。  確かに感謝を持って 生命を食らうのだ』

『縄文のムラは 広場を中心として円形あるいは 輪を描くように形成された。 環状集落は 文字通り家族を単位とする家々の「輪」であり 人間の「和」の具体的な姿だった。  でも 現代を生きる私たちは 遠くその事を忘れて 久しい年月を費やしたものだ。 何とか私たちは それを取り戻そうと努力したが 果たして君たちに実りをもたらしたであろうか』

『戦いは何時も 消耗に決まっている』

『鏃(やじり)   獲物を獲得するための大切な道具を 何故 人は人に向けて引き絞るようになったのだろうか。  この深刻な問題を解く鍵を 考古学に求めたとしても 決して失望することはないだろう』

『此処より何処かに 希望の大地が。 としても 放浪の厳しさも心に留めておくべきだ。  楽園は 心の中だ』 

『考古学とは   「人間」とそれを包み込むすべての領域を考える  総合科学の要である』

 人類の歴史は この星の誕生の歴史と比較しても ほんの僅かな歳月でしかない。 時代を経て進化してきた高度な文明の発達は 多くの恩恵を与えてきた半面 人間の都合により自然界の摂理を 極めて短い年月で消耗してしまった。 かつて地球全体を氷河期へ向かわせた暗雲 それと同じ自然の神からの戒めが今 人に覆い被さってきている。 
 都会で暮らす人々も 環境問題への取り組みを声高らかに上げてはいるが 夜になっても昼間のように明るい都会では 残念ながら本来人が持つ生命の感受性を養うことはできない。 命を大切にしようと投げかけたところで 偽装される不安感を抱きつつ購入する パック詰めされた食肉を日々口にしている日常では 自然からの生命を頂く尊さを感じられる訳がない。 
 人が口にする生命の死は これまで蔑(ないがし)ろにされてきた高齢化過疎化の進む 農林漁村地区でいち早く体験する必要がある。 その土地で 生きた魚鶏豚牛を自らの手で捌(さば)き 土泥に塗れ 米野菜果物作りを体験実践する事で 人は 人として本当の豊かさの意味を知り 人間として生かされている立場を弁(わきまえ)え 今こそ人類として成すべき役割を覚えるのだ。
 先祖が残した教えは偉大なものであり そこから学ぶべきものは無数にある  須(すべから)く 西都原を目指すべし。

宮崎 西都原古墳群
<畑より見る西都原古墳>

耕作畑より眺む古墳跡
<耕作畑より眺む古墳跡>

5月 23

宮崎港発大阪行きフェリー
<宮崎港 出航前の船を眺む。九州宮崎と 関西大阪を行き来するカーフェリーは約12000トン 速力25ノット。 人と車 多くの物資を積んで毎日運航する。>

 宮崎の港から 船に乗った。
大阪南港を目指し19時に出港して  翌朝7時には港へ到着予定の一晩船の中で寝たら着く旅 よく利用する。 
船内には食堂 売店 無料で入れる風呂まであるから 船旅 もなかなか乙(おつ)なものである。  

 この日は 乗船待合室に修学旅行生の一団が大勢いたので 混雑を避け学生たちよりも先にタラップを上がり乗船した。  足早に寝床を確保し 早々に風呂へ向かうとすでに先客が一人いた。 
 挨拶をすると この船をよく利用する長距離トラックの運転手だと云う。  関西弁だったのでてっきりその地方の方かと思ったが 話すうちに生まれは九州大分の杵築(きつき)だと知る。 

 運んでいるものは何だと聞くと  毬栗頭(いがぐりあたま)に多少白髪も混じり 強面(こわもて)の運転手は大きく頷いた。

「千両と万両ですねん」
 自前の石鹸を 頭の上で掻き回しながら言う。 勢いよく石鹸の付いた短い髪を洗うものだから 見事なほど泡立ち みるみる白くなっていった。  その仕草が あまりにも小刻みで素早く 可笑しくて笑うのを我慢しながら

「お金 運びですか?」 と聞くと 彼は瞑(つむ)ったままだった目を大きく見開き
「ちゃう ちゃう 千両の実イと万両の実イゆうて 正月とかにお飾りで使う ホラ 緑の葉っぱに 赤いちっさな実イ つける木イがあるやん」
 と 気忙しく言った。 

「千両は 葉っぱの上に真っ赤な実イつけて 万両の方は 葉っぱの下にぶら下がるように実イ付けるや」 
 
さらに 関西方面でも正月に多く使われるので 繁忙期には 大阪九州を 日帰り往復の仕事が続くらしいとも 教えてくれた。       
それまで「千両の実」は知ってはいたが 同類で他に 十両 百両 万両までもあるとは思いもよらなかった。
二人で湯に漬(つ)かった頃 窓の景色が動き出し ようやく船は岸壁を離れ出港。 大きな船なので 揺れていることはそれ程感じなかった。
 
「ほんなら 金木犀(きんもくせい)があって 銀木犀(ぎんもくせい)があることは 勿論知らんやろなあ」 
彼は 湯船のお湯を掻き混ぜながら笑って云った。 その通り 世間知らずの私は金木犀は知っていたが 残念ながら銀木犀も存在しているとは 教えて貰うまではまったく知らなかった。 恥ずかしながら笑われるのは 当然至極(とうぜんしごく)御尤(ごもっと)もである。
 
 湯から上がり 粋な暖簾を後にして デッキへと向かった。 
船のスピードはそれほど速くはない。 現代の旅行手段での船旅は 断然遅い部類に入るであろう。 海夜風に吹かれながら夜空を見上げれば 満天の闇に満天の星が広がる世界 しかも風呂に入りながらの旅ができるなど 最高の贅沢ではないだろうかと感じていた。  
 遠く宮崎の街灯りも見えなくなり 大海原の船旅心地よく 階下の船室へと戻る。  そこでは賑やかに 修学旅行生たちの楽しそうな声が響き 想い出づくりに輪が広がっていた。 私の寝床は そこより離れていて入口のすぐ近くにとっていた。  別段騒がしくもなく 横になり暫くしたらすぐに寝入ってしまった。 
 
 別に眠れなかった訳ではないが 明け方四時頃目が覚めたので一服しようと客室フロアーへ出た。 
船内に設置されてある船の航位・航路表示モニターに目をやると 船の現在位置は室戸岬沖で 航路がちょうど紀伊半島と四国の間 紀淡海峡へ向けて方向を変える辺りだった。  
 大型テレビの前 波の揺れで動かないように固定されてある椅子に 年配の男性がひとりで座っていた。 見ると頭にはタオルを捻じり鉢巻き姿で 日本酒をちびりちびり呑んでいる。
 一服し終えてどちらともなく 話し出すと 住まいは最後まで口にはされなかったが 生まれは九州熊本の方だと云う。 集団就職で都会へ出て 帰省の旅費を切り詰めるのにあらゆる旅行経路を探し これまで帰省し続けてきたと話してくれた。  ある年は 大阪から船で瀬戸内海を抜け大分へ入りそこから汽車を乗り継ぐ道。 関西方面から日本海側を列車に揺られ下関まで出て 関門海峡を渡りそこから九州へはいる経路。昔は夜行列車が多く走っていたのでいろンな帰省道を楽しんだそうだ。

「寝酒に手をつけたら 寝られなくなってしもうたですもんね」と 捻じり鉢巻きの熊さんはぽつりと呟いた。  
 思い出に残る旅はあるのかと聞くと 

「やっぱり 夜行列車で乗り継ぐ旅やね 飛行機とかは好かん。 窓の開けられん列車じゃあ 面白くなかろうもン。 だけんが 最近は夜行列車も限られてきて 少なくなってきよったのが さみしかあ」 
 と小さなお猪口を片手にしみじみと語る。 
酒を呑めない私には その愉しみは未だわからないが しみじみとくる想いだけは 同感できる旅仲間だ。  窓の外は白々と明るくなり始め やがて陸地を望み大阪の街が見え出した 船の中でのことであった。

船の甲板 警笛響く
<大阪湾へ入り 船の甲板より警笛響き渡る。>

志布志航路の船と大阪湾
<船旅12時間 志布志航路の船が船尾に現れ ほぼ同時刻に大阪南港に接岸する。>

5月 06

 鮮やかな記憶として 今も心に焼き付いている。
当時私は 典型的な野球小僧だった。明けても暮れても 野球の事が頭から離れず 何をするでも そこへ行きつく。

 或る日 日本中を熱狂の渦に巻き込んだ 若きヒーローと出会った。 いや 正確には遠くから その姿を仰ぎ見た。 彼は 高校球児の誰もが目指す檜舞台の甲子園で 出場する度に大活躍し プロ・アマ球界から注目されていた。 彼の一挙手一投足が テレビ新聞雑誌を賑わし 加えて国民的憧れの存在。 野球センス 実力ともに素晴らしく 野球の親子鷹としても有名であった。 その彼が在籍する高校が 地方の我が郷土に招待試合で訪れた時の事。 
 私は 招待試合前の 練習風景をどうしても見たく 練習用に充てられた 古い球場の外野観覧席に座り待っていた。 暫くして 練習着ユニフォーム姿の彼らが グラウンドへ現れた。 テレビで観ていた憧れの存在が 現実に自分の目の前にいる その感動は 高鳴る鼓動と唇にさえ渇きを覚えた。 選手が勢揃いし ランニングに柔軟体操 ひと通り体を解(ほぐ)した後 キャッチボールは始まった。 すると 「注目の彼」一人が ベンチに残る監督に呼ばれ走って行く。 その姿を追いかけ凝視するも ベンチに入り見えなくなった。 時間にしてほんの僅かであったろう 「注目の彼」は出てきた。 遠くからでもはっきりとわかるほどに その頬は赤く 目には涙をいっぱい溜めていた。 ベンチの中で 監督と「注目の彼」との間に何があったのかは 確かめようがなかったが その直後 彼らの練習に取り組む姿勢が 明らかに変わったのだ。 ひとつの動きから声の張りに至るまで 当初の時と比較して まるで別人たちのようであった。
 
 打撃練習に変わる。 通常本塁ベース上付近に打席を構え 打ち込み始めるのだが 「注目の彼」は十数メートル後ろの バックネットのすぐ前に立ち 打撃練習を始めたのだ。 その不思議な行動の疑問は 瞬時に解き明かされた。 
 彼の打った打球は 92メートルの左翼フェンス ポールよりも更に高い所を通過し 球場の外 4車線の道路をも超え 向かいにある競泳プール場 観覧席最上段の壁に直撃した。 それまで見たこともない バットスウィングの速さから繰り出された打球。  しかも 三塁手のわずか頭上を ライナー性で越えたかと思ったら そこから一気に加速し大きく弧を描き 遥か場外へ飛んでいったのだ。  これが プロ野球界からも注目され 日本中を沸かせる打球なんだなあと驚いた。 彼は 高校生で 私は 野球小僧だった。  本当に小僧だなあと 痛感した瞬間でもある。 その後の 招待試合も勿論観戦したが 結果のほどは まったく覚えてはいない。
 
 余談がある。 この時私は 球場のグラウンド整備と 試合中のボールボーイを任されていた。 招待試合が始まる直前 突然の大雨で試合開始は大幅に遅れたが 球場を去る観客は一人としていない。 球場へ訪れた人皆が 時の若きヒーロー その活躍する生の姿を見たいのだ。 
 みるみるグラウンドは水浸しとなり 当然私は 水はけ要員の一人として バケツと雑巾を持たされ ベンチ裏通路でワクワクしながら待機していた。 同じ姿のその数は 二十数人全員野球小僧たちだ。  私は 憧れの選手と同じグラウンドへ出られるということ たとえ それがグラウンド整備であろうが関係はなく 同じ場所にいるという事が たまらなく嬉しかった。  
 小降りになりだした雨 西からは晴れ間も見え始め 場内アナウンスが流れた「只今から グラウンド整備に入ります・・・」それを聞いた途端 一目散に 内野目掛けて走り出した。 場内の観衆からは笑いと拍手が起こっていたが 少しも気にならなかった。 ただ憧れの人が守る 守備位置目掛けて全力で走っていた。  
 そこは「注目の彼」が守る 三塁ベース付近。 私は 即座に持ってきたバケツと雑巾で 無心に水を吸い取る。 すると まさか自分だけかと思っていた聖域に もう一人同じ姿があった。 これにはびっくりしたが 構ってはいられない 黙々と濡れた雑巾をバケツに絞る。  雑巾部隊の活躍によりグラウンドは水がひき 新たに土が撒かれ 二十数名の野球小僧たちは 仕事を終えてベンチ裏へと戻った。  間もなく試合開始のサイレンが 晴れ渡った真っ青な空に鳴り響いた。   
 この時三塁で 水取り作業をしていた同じ思いの野球小僧 その彼とは 未だに当時の話で盛り上がる。 二人とも現役は 遥か昔に引退はしたが「注目の彼」のお蔭で 親友という縁の結びつきだ。  お互い野球小僧だった時代 それはそれは たのしい思い出である。

 今年 「注目の彼」が再び脚光を浴びている。
同じ野球の舞台として 背中に日の丸を背負い 今度は世界を相手にする。 ベンチから采配(さいはい)を振るう総指揮官だ。 
 
 「注目の彼」に忘れないでいてほしい事がある。  
あの時 高校生だったあなたが ベンチにいる監督に呼ばれ 全力で走って行った時の事を。  

忘れないでいてほしい  その時 監督が男として伝えたかった想いを。  
忘れないでいてほしい  あの時 ベンチから戻ったあなたの姿を見て 全員の意識が一つになった事を。   
忘れないでいてほしい  監督という孤独と戦った 男親の脊中を。

市営球場入口

鴨池市民球場 正面玄関。
入口に建つ像は 「野球」という言葉を創りだした創始者 中馬 庚。

市営球場三塁側から松林を眺む

「市営球場」という呼び方は 通称であった。よく見ると「市民球場」と描かれてある。 ここでの思い出は無数にあるはずだ。 数々のドラマを生みだした昭和の時代。 年代を超え 語り尽くせぬそのワンシーンは この古びた「市営球場」に訪れた人の数だけある。  

5月 06

 冬場れの日 九州は太平洋岸 温暖な宮崎 奥床しい児湯(こゆ)郡 木城(きじょう)町を訪れた。

 新宿での取材を渋々途中退席し 羽田空港へ向かう。 空は鈍より雨雲が立ち込め 気流の乱れを案じたが 有り難いことに離陸直後睡魔が訪れ 目覚めた時は 眼下に海面を見下ろす 着陸寸前の宮崎空港間際だった。 空港と直結する宮崎空港駅から 特急列車で約三十分 高鍋駅へ着いた。 
 辺りは帳(とばり)が落ち ホームへ歩き始めると左手 闇に包まれた中に 薄っすら 白く大きな文字が浮かび上がっていた「孤児の父・・・」と。 気になったが 役場の方がわざわざ迎えに来ているはずなので 足早に改札へ向かう。 そこから車に揺られ 小丸川の河川敷に広がる 川原自然公園を目指す。
 この地に限らず 過疎化の進む地方では 人口減少に苦慮する自治体が多く ここ木城町も 町をあげて対応策を講ずる。 その一環事業の取り組みとして 二泊三日町へ滞在 宿泊体験を通じ 土地の良さを認識してもらい 観光として訪れてくれる人或いは ここへ移り住む人を歓迎する企画だ。

 遅れて到着した初日の夜 先に入っていた年老いた両親の 無事な笑顔があり ひと安心する。
既に始まっていた地元の方々との酒宴に加わり 旅の疲れを払拭(ふしょく)。岡山から来た若い家族連れと同席し 話は盛り上がり 地元の古謡も聴くことができ 楽しい夜を満喫。 宵も更け 公園内に敷設されたコテージで 満天に広がる星空の下 小丸川のせせらぎを聞きながら 親子三人床についた。

「闇は 人を研ぎ澄ます  瀬音は 人に安らぎという 穏(おだ)やかな時を与える  
  深遠(しんえん)なる夜 その尊い萌(きざ)しは この山里に生れ この川に育まれる
間(ま)のある景色は 美しい  風の見える風景は 麗しい
  風を想う そよかぜと書こう  川を想う せせらぎと記そう
木は 生命(いのち)宿す道 風 やさしく  空 はてしなく
 城の上に 月 星みちびき  太陽誕生」

太陽が昇る前に 目が覚めた。
 木々に小鳥が囀(さえず)り 穏やかな朝。 鳥の眼で俯瞰(ふかん)し眺めるとおそらく コテージのあるこの場所は まるで箱庭のような景色だろうと想像しつつ 木の扉を静かに開けた。 南国とはいえ季節は冬 真白き霜が地面を覆い 足元は悴(かじか)む。  暁闇(ぎょうあん)眠る山の端に 下限(かげん)の月が朧(おぼろ)げに姿を残して 次第に時は動き出す。 谷合を縫うように流れくる 川面に立つ白き湯気 流れとは逆に上っている。 凛と背筋心肺 身は引き締まる。
 
河原に足を踏み入れ 足場になる石を見つけながら 川下へと歩く。
 目の前に現れたのは 海に浮かぶ小島を想起させる 木城百景 渓谷流麗な川中の島だった。 自然が創り出すその神秘的造形美は 神々しいまでの景観を生み 絵にも描けない美しさという言葉は 見事な事実だと確信させてくれる。 自然の地形を活かし 人の手による開発は最小限に留め 造成された風景の美しさ。 それは そこに住む人の心の美しさであり 圧倒的な感動をもって映し出される。 思わず手を合わせ 拝みたくなる景色とは 紛れもなくこの地である。

昼 役場の方々に案内して頂き 出向いた先は 彼(か)の文豪 武者小路実篤の遺志を継ぐ 石河内地区「日向(ひゅうが)新しき村」。
 かつて この村へ入る時は 川を渡る船でしか経路がなかったという。今でもこの地では ひとりの翁が 畑を耕し 水田を起こし 家畜を養い 自給自足の生活を営まれている。

焚き火を囲んで ここでの生活を訥々(とつとつ)と語る翁。
 「ここには何もないですねと人は言うが それは間違いだ。 この土地には 人が暮らしていく上で必要なのものは 全て自然から与えられている。 それを 我々は知ろうとしないだけだ」
長年 自然を相手に暮らしてこられた翁の 揺るぎない想いと静かな情熱は 人としての豊かさを感じた。
 
 村を訪ねた者に対して 持成す料理は 昨日まで飼っていた豚を捌(さば)き 薪で火を熾(おこ)し 大鍋の中に採れたての野菜を入れ じっくりと豚肉と煮込む。 火力を上げるため さらに薪を焼(く)べ 鍋を囲み箸で啄(ついば)む。  まさに自然からの尊い生命(いのち)を頂く有り難さ 極上の味に感謝の一言である。
 自然の中で生きる事とは 自然のチカラのお蔭で 生かされていると 改めて実感できる。 人が人として 本当の豊かさを求めるのであるならば この地はまさに その答が 山にあり 川にあり 人にある。 この素晴らしき風景 穏やかな時の流れ 二泊三日の通りすがりの旅ではなく 今一度(いまひとたび)訪れ 大いなる自然 恵みの中に身を委ねようと思う。  その時まで 瞼(まぶた)の奥にそっと蔵(しま)っておく事としよう。

小丸川に川中島

木城町 川原自然公園 小丸川に 川中の島
   「風景の美しさは そこに住む 人の心の 美しさ」

日向新しき村 実篤さんの記念館を眺む

「日向新しき村」 実篤さんの記念館を眺む

日向新しき村を展望す

木城町 石河内地区 山の展望台から眺める 雄大な景色
 「そこには 人が人として 人になる 穏やかな営みを 風景の中にも映し出す」

4月 09

【無縁仏と「女将さん」】

 近所の人から「女将さん」と呼ばれている良さん家(ち)の奥さんは いつも泥に塗れていたが 何処となく品のある物腰が「女将さん」と呼ばれている所以(ゆえん)なのかと 勝手に思っていた。

町からは 少し離れた山間(やまあい)に住む 父親の友人 良さん家(ち)の畑である。 
 一月下旬に綻(ほころ)びだした梅は 二月に入ると満開となった。 畑では 良さんの奥さんが頬被(ほおかぶ)りをして 野良仕事に精を出していた。畑から引き抜かれた大根は 天日に干され 飛切り美味い漬物になる。
 
 味のある家並みに 里の風景が優しく この辺りの全景を撮りたいと思い 坂を上がる。  茂る草に隠れ 小さな墓が在るのに気がついた。 よく見ると「南無阿弥陀仏 無縁仏」と刻まれてある。  手を合わせ 墓前を過ぎた先に 小ぶりの社(やしろ)が大木の根元に祀(まつ)られ 花が飾られてあった。 頭上遥か高いところから 木の枝が垂れ下がり 欝蒼(うっそう)とした森を創り 木漏れ日が僅(わず)かに差し込んでいる。
 社を覗き込んでいると 後ろの竹藪から音がするので振り返ると 何処かの猫がこちらをじーっと見ていた。 邪魔するのも気が引けるので もと来た道に戻る・・・。と 坂の下から農作業姿の御老人が上ってきて 「この辺りは 墓が沢山あったんだ」と指差し 「ほら あそこにも」 見ると家の玄関近く 敷地を守るように祀られて在る。 
 無縁仏の謂(いわ)れを尋ねると「この道を通す時 骨がわんさか出てきたんだ そん時 あそこに移して供養したんよ」と語ってくれた。 その話の先を知りたかったが 坂の上の畑に向い 姿が見えなくなった。
 
良さん家(ち)の畑に戻った。  
 畑では 大根を一本ずつ引き抜く 腰の曲がった「女将さん」の姿があった。  白菜 人参 大根を持って帰れと手渡され 両腕で抱えきれないもので 少しばかり往生したが 有り難く頂いた。 

帰り際 「女将さん」に無縁仏の事を聞いた。
 
 昔 この辺りの山からは 鉱石の錫(すず)が採れていたそうだ。  近くには 温泉もあり 鉱山で働く多くの鉱夫が 仕事の疲れを癒しに訪れていたと云う。  町には 温泉宿に料亭 芸者屋 遊女屋 置屋などが軒を並べ 花街として賑わっていた。  時がたち いつしか錫も採れなくなり 鉱山は閉鎖 活気のあった温泉街も客足は遠のき 料亭や花街界隈の灯も 少しずつ消えていった。  やがて町は廃(すた)れ 住む人も代が変わり この土地がかつて 華やかだった頃の面影も消え失せる。  花街で暮らして居た女衆の大半は 当時 貧しい時代の波に翻弄(ほんろう)され 若くして身を売られて来た娘たちであった。  日々稼いだ金を自ら使う術もなく 田舎で細々と暮らす家族に仕送りし続けてい
 た。 送り届けられるのは金であっても 懐かしい生まれ故郷に 我が身が帰ることはなかったと云う。 この地で過ごす日々が長くなるほど 家族の待つふるさとは 彼女たちにとって 余りにも遠くなっていった。 
表向きは 煌(きら)びやかな着物を身に纏(まと)い 派手な生活の様にみえたが その心の内は どれほど寂しかったであろうか。  
 大勢いた女衆も 歳をとり老いていく ひとり またひとり 名前の刻まれていない石だけが増えていく。  木々に覆われた小高い丘には 村を抜ける為の道を作ることが決まり 造成で掘り起こしが始まった。 すると 土の中からは 無数の人の骨が出てきた。 「女将さん」は迷うことなく 新しく墓を造ったという。

  石に刻まれた文字は 無縁仏とあるが その謂(いわ)れを知ったら もう無縁の石ではない。 今では花を手向(たむ)ける人があり 線香の仄(ほの)かな煙も燻(くゆ)り立つ。石の傍(かたわ)らには 寄り添う様に 可憐で小さな野菊の花が そっと微笑みながら咲き誇っていた。

 近所の人から「女将さん」と呼ばれている良さん家(ち)の奥さんは いつも泥に塗れていたが 何処となく品のある物腰が「女将さん」と呼ばれている所以(ゆえん)なのかと 勝手に思っていた。