11月 29

 商店街を歩くのが好きだ。
墨田区京島の 橘館通り商店街を歩いていた時 不思議な縁を感じた。以下は回想である。

 

 私があの時 東京を発つ時の出で立ちは 雨靴にヘルメットを被り 防水用の迷彩服のロングコートを身に付けた。 
 行先は 地震の被災地 神戸三宮 瓦礫の上を歩くために。
 
 宿泊したのは 京都のホテルだった。
明日 被災地に足を踏み入れる前の晩 寝付きが悪く 気分転換のつもりで町へ出た。 
土地感はない 近場を歩き 見つけた教会に迷わず入った。 
何をするでもなく ただそこにいた。 

 夜が明けた。
ホテルに戻り 朝食を済ませ 地下鉄に乗り 神戸を目指した。 
通勤客に紛れる自分の姿は 明らかに異様な雰囲気だったが この状況下において 平静を装っている方が 異常に見えたのを覚えている。

 大阪から神戸方面の電車は 不通だった。
しかたなく 南港に行先を変えて 船で神戸を目指した。
 船の乗客は 船室からも人が溢れ 甲板デッキにも 大勢いた。
当時 携帯電話が出始めた時期で 甲板でも 大声で通話している人がいたのを記憶する。

 大阪南港を出港し 神戸の陸地が見え始めた。 
昼間で太陽は出ているのだが 空は鈍よりと曇っていたのは 街が焼け 煙が立ち込め 風が 噴煙を舞い上げていた。
身体に震えがきた。 

 神戸の岸壁は 所々崩れていた。
船が護岸に到着し タラップが下されると 乗客は争うように階段を降りるので 私は敢えて じらす様にゆっくりと歩いた。 
後に続く人たちは その速さに合わせて下りた。

 港から三宮の町は 一か月前とは 別世界で 道は陥没し街路樹は 斜めになり ビルが潰れて 想像を絶した。

 山手側に向い 歩いた。
アーケードが崩れた商店街 大きめの店舗の中で 復興作業をしている 見覚えある年配男性の姿があった。 話などできる状況ではなく 先を急いだ。

 それから一年が過ぎたある日。
新浦安駅前のホテルの地下 ハブというレストランで 偶然にも復興作業をしていた方とお会いし 当時のお話を伺えた。
「三宮の店舗は 初めて店を出した創業店で 被災したことを知り 駆け付けた」と語って頂いた。 その時学んだことは
「被災後には 自転車の後ろに取り付ける荷台が 物を運ぶのに重宝し スタンド付きだと さらに有り難い」と話された。
 決して商売の話はされなかった。 社員と客の 心配ばかり されていた。 今は 懐かしい思い出である。
 
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墨田区京島にて。

11月 15

 高度経済成長で 人口増加が進み 起伏のある城山を切り開き 住宅団地を造成した。

削り採った土砂は 市内を流れる川伝いに配管を通し 海岸を埋め立てた。
 
 山を削り 造成された団地には 新しく生徒を受け入れる校舎が完成した。
それまで通っていた麓の小学校から 山の上への引っ越し作業が始まった。
 机だけは大人たちが 車で運び上げ 座る椅子は 生徒自ら 自分たちで抱えて運んだ。 
距離にして約1kmだが 路線バスさえ通らない急傾斜の坂だ。子どもたちは 時間をかけ
て運び上げた。 皆 最初のうちは遠足気分で楽しがり ハシャイデいたが 坂のきつさに
立ち止まり 椅子に座る生徒が続出。やがて渋滞を作ってしまい なかなか新しい校舎までは
辿り着かなかった。

 ようやく半日かけて 学校の引っ越し作業は 無事終了した。
翌日には平常通り 授業も再開され 新しい校舎には 子どもたちの声が響いた。
まだ砂利石も残る 充分に整地されていない校庭ではあったが 皆 楽しく走り廻った。

 
 新校舎にも慣れた頃 担任の先生から話があり 『校庭の石ころ拾いをやろう』と提案が
出され クラス全員でやる事になった。

 最初は 広い校庭にクラス全員が散らばり 好き勝手に石を拾い集めていたが 
誰かが「これじゃあ 何年かかるかわからない」と言いだし 再度クラス会議がもたれ

討議された。 不平不満の声が上がった。
「仲良し同士だと 無駄話ばかりして 拾うことをしないから 班を作りやろう」となり 
「広過ぎる敷地を 効率的にしかも 満遍無く拾い集めるには 区分けした方がよい」との
意見で 日程を決めて 広さを区切った。 
「目標を立てながら 拾い集めたほうが 楽しいはずだ」との声で 校庭の石拾いは再開された。

 独自に始められた 校庭の石拾い作業は 他のクラス 学年へも伝わり 
参加者は一気に広がり 休み時間を使いながらの作業は ついに全校生徒に波及した。 

高学年の生徒は 低学年の年下の生徒を 教えながら一緒に作業する。 
一か月もしないうちに 校庭の石拾いは終了した。

 再び担任の先生との話がもたれた。 今でも根っこに植え付けられている。
『人間って勝手なものだよ いつも坐らせてもらっている椅子も 運ぶとお荷物になって

煩わしい。 みんなで遊ぶ校庭も 遊んでいる時には 広さは感じないけど 
石を拾うと なんでこんなに校庭って 広いンだろうって思う』 

 小学生時代 毎日欠かさず書いていた 担任の先生との交換日記。
その中に 赤鉛筆で記されてある 恩師の筆跡が残る。
 小生はいま一度 この国に対して 往年先達たちの教えに戻らしめ
国の主軸たるは何なのかを 問いかけたい願望が ほとばしるほどある。
 人の姿勢を生み出す郷中教育は 今でも根っこに 植え付けられている。

公園となった 小学校跡地。

椅子を抱えて運び上げた 小学校跡地。

嘗て 鶴丸城を守る裏山の城山は 防御のため武士を配置し 山城が形成され そこは 夏蔭城と呼ばれた。

   嘗て 鶴丸城を守る裏山の城山は 防御のため武士を配置し 
山城が形成された。 そこは多くの樹木に覆われ 涼しい所で 夏蔭城と呼ばれた。

11月 10

 乃木坂にいた 叔母が 他界した。

遊びに行く度 いつも笑顔で迎えてくれて 包み込むような優しさは 忘れられない。

『よい ご本があるのよ』と電話をくれた数日後には 届けられ 二人で本の話に費やした時間は 実に愉しかった。

 札幌 仙台 東京 広島 福岡と全国を巡り 献身的な歩みは 感謝の心と 裏表のない 生き方だった。
若い時 仕事中に 手の親指の先端を 誤って切断する不運に 見舞われた。
『この世の すべてを 受け入れてごらんなさい。 自分がみえてくるわよ』と語った言葉の意味が 心に沁みる。

 あの日も いつものように 会いに行った。
『久し振りだから 讃美歌を聴きながら 話したい』と わがままを云い 部屋で二人きり CDをかけながら 2時間程話して別れた。

それから 1週間も経たない日 訃報が届いた。
天に召された顔は 生きているように 穏やかな表情 シスターだ。

乃木坂 叔母のいる坂道。

乃木坂 叔母のいる坂道。

11月 08

 書が好きで 子どもの頃から筆に親しんでいた。 好きが高じて 筆耕(ひっこう)の職に就いた時期もある。

 

「筆耕」とは 

①写字などにより報酬を得る事。②文筆により生計をたてる事。とあるが小生の場合は 葬儀・婚礼時のいわゆる看板文字書きだった。

 勤めた先は 割と大きめの花屋で 婚礼部門と葬儀部門があった。 婚礼時に書く仕事は 土日祝の前日までに仕上げる事が一般的だが 葬儀の場合 友引(ともびき)前日以外は ほぼ毎日書いていた。なぜなら友引の日は 火葬場が休みで 書く仕事が無いのだ。

 

 書く対象物の大きさは 花屋の店先で注文を受けた 花束に添える名刺ほどのカード書きから 葬儀会場入口に設置される 20尺(縦約6m・横約1m)の大看板に 棺の蓋や骨壺もあった。 何とも往生したのは 連絡の不徹底で 御遺体が安置された棺の蓋に 書かなければならなかった時である。 既に祭壇に飾られ 親族も揃った式間際 了解を得て蓋を開け 全員の注目を浴びながら書いた時には 生きた心地はしなかった。

日頃 書く量が一番多い物は 祭壇の両側を飾る 生花(菊の花籠)に据え付ける名札で 多い時は 日に400枚以上書いた時もある。 他には 葬儀場所を指示する道案内の 通称「捨て看板」に 珍しいものでは 米粒にも筆書きした。

 筆耕は 急な対応にもその場で対処する為 お通夜の式場に 筆と墨を持参し出向く。

お通夜開始が夕方18時直前になり 「付け花」と呼ばれる祭壇に飾る花籠が 方々の花屋から次々と会場に届けられる。 名札には送り主の名前が記されてはいるのだが その文字は千差万別で 一緒の祭壇に飾ると文字が逆に目立ち 統一させるために 書き直す必要が出てくるのだ。  身内親族にとって葬儀式とは 時間の流れが尋常な時ではない。 人間の研ぎ澄まされた 悲しみの五感が極端に鋭くなっている。 式に携わる側の人間も 肌で感じる為 表情感情を出来る限り抑えるが お通夜開始時刻寸前になって「付け花」の文字を書き変える段階では 一分一秒を争う忙しさだ。 それまで冷静に振る舞ってきた人間が 一転して慌てだす瞬間を幾度となく見てきた。 「忙しい」という文字が 心を亡くすと書く意味が はっきりと分かる瞬間でもあった。

 

「筆耕」の日常は至って平凡 ただひたすら筆で文字を書く。 その繰り返しの日常で思いついた事があった。  

 長年筆耕を続けてきた人間であっても 縦書きで何枚も文字を書いていくうちに 字列が左右どちらかに傾いてしまう。 歪みを防ぐ為「あたり」と呼ばれる枠点を付け 書いていくのだが これでは 急ぎの時など時間がかかる。 その時 小生は考えた。 片目(利き目)を閉じて書いてみたらどうだろう。  周囲の奇異な目も気にせず 片目書きに没頭した。 これは 人には「利き腕・利き足」があり「利き目」もあるはずだから きっと利き目で見る力の方が 強いはずだと考えたのだ。 小生は右目が利き目なので 両目で見ていても 右目で強く見ている為に 文字は左に歪んでしまう。よって左目だけで書く訓練を始めた。 最初はぎこちなかったが 慣れると案外楽に書け 考えていた通り何枚書こうが 文字が歪む事はなくなった。 当然「あたり」の枠点を付ける事もなくなり 他より俄然書く速度が増していった。

 

 この利き目を閉じて書く事を体得したら 不思議な事に 丸い円を正確に描けるようになったのには驚いた。 丸く描いた円に コンパスを当て確認すると 完全な円形を成している。 試しに正三角形を書く練習を続けたら 見事にその形を正確に描けたのだ。 この事象は かつて古代ピラミッドを造った人が 当時高度な測量技術を持たずして 正確な正三角形を創り出せた技ではなかったのか。 世界の七不思議の一つは 利き目を閉じる事により 成し得たのではないかと直感した。  一読された方…利き目を閉じる事など 時間は要するが 試してみる価値はある。

 

 ここに於いて 書き記しておきたい事は 七不思議を解く鍵だとか ピラミッドの測量技術の話ではない。 人には 利き腕・利き足・利き目があり 知らず知らずのうちに 人間の身体機能を 片方しか使わず生活している危険性を問いたいのだ。 人間誰しも楽な方を望む 利便性の追求は今後も 世界の文明に寄与するだろうが 最も難しい 人の意識を変えるヒントは 日常の何気ない行動の中にも隠されている。

「筆耕」時代の筆

「筆耕」時代の筆。

 米粒にも書く依頼があり その時使用した筆は 鼬(イタチ)の毛の筆を好んで使用した。 

当時試みた事は 棒に大筆を括り付け 立ったまま文字も書いた。 左手書きに両目を閉じて書くなど 今 思えば かなり破天荒な「筆耕」時代であったが 人間 自分に負荷をかけて訓練すれば 大抵の事は出来るものだ。 その時学んだものは 出来るまでやれば 必ず出来るという 単純な答だった。