8月 15

湊町に残りし井戸

 古く歴史のある港町で 海からは少し中に入っている。
かつては その地方の経済を左右していた程 町には活気が溢れていた。 毎年恒例の夏祭りでは 京都の祇園祭りを彷彿させる山車が繰り出し 黒山の人だかりがあったという。 特産品として 海から上がった魚を使い すり身にして油で揚げる「つけあげ」は絶品である。

 この湊町に91歳の重爺と85歳になる波江婆夫婦がいる。
二人は若くに所帯を持ち 三人の健やかな子に恵まれる。 家計を支えたのは 畑と米作りの水田に蜜柑山だった。
身体頑強な重爺は 冬でも夏でも 毎朝4時には起きて畑仕事に出る。 一仕事終えると 家に戻り朝御飯を済ませて 今度は蜜柑山へと向かう。 急傾斜な山肌を開墾 登り降りを繰り返し石垣を積み上げ 蜜柑の生育に苦心した。 骨身を惜しまず働くとは まさに重爺の姿そのものである。

 一方 長年寄り添う波江婆は 畑仕事を手伝いながら 町の「つけあげ」をつくる店に出た。
二人の家に行く度 この「つけあげ」が出てきた。 その味はどこのものよりの美味しく 忘れられない極上だった。
残念なことに 波江婆が働いていた店も 閉店してしまい その味も廃れてしまった。 

 
 二人が旅行に行くと云うので 市役所へ申請の手続きに付き添った。その帰り道の事である。
91歳にして身体頑強な重爺と 85歳 年老いても美しい波江婆が 口を揃えて云う。
「わしらは 後期高齢者か? 前期高齢者か? 日本には長寿という言葉があるだろう。 どうして 人をいたわる言葉を使えんのか!」

返す言葉は 無かった。