9月 01

017

 世界規模で蔓延する 新型インフルエンザ流行の真っただ中 9月1日病院へいった。

早朝メディア告知の発表では 学校の休校や閉鎖措置のとられた地域は 東京39校  奈良・鹿児島4校で 全国15都府県60校に及んでいると 巷に流れていた。
 事前準備をしたマスクを着用し 病院へ入る。 件の慌しさだろう診察待ちの患者は長椅子に大勢いた。
 驚いたことに 職員は勿論 医療従事者にマスクを付けた人の姿がなかったのだ。 

受付 エレベーター 通路 入院棟を歩いても・・・。
 これが 日本の医療を施す側(調剤薬局も同)の 低い意識レベル現実なのだ。 
驚きを通り超して 怒りが先にきた。 ふざけるな! なめたまねをするな! なんたる意識の低さか!。 
 その光景は すべて人ごとだった。 他人まかせで 自分に危害が及ばなければよいのだろう。 悲しかったが その日 自分の出来る限り 知人に向けて 医療現場の現実を連絡した。 
 既に手遅れだろうが 分かって頂く人はいて ただただ嬉しかった。 皆様の町や村の医療現場は 大丈夫ですか。

1月 12

その現場。

 取材を終え 原稿を認めようと 
浦安駅前にある ファーストフード店に入った時
目撃した出来事である。

 駅の改札は 帰宅帰りの客が大勢いて 店の外にも行列を
作り並んでいた。 店のスタッフは 多忙な中 笑顔の接客
応対を繰り返し 手際よく商品をさばいていた。 
店内に入り ようやく自分の番が巡ってきて オーダーを口に
した時 隣にいた年配の男性が 突然若い女性スタッフに対し
罵声を浴びせた。

○カウンター
男     「(顔を真っ赤にして)バカヤロー! 何聞いて
       ンだよ 違うじゃねえか。 この野郎!!」
スタッフ  「(茫然として)」
男     「(人差し指を押し付け))俺が 注文したものを
       出せよ!」
スタッフ  「(うつむいて)これが お客様のご注文された
       ものですが・・・」
男     「どこがだよお 違うって言ってンだろ! 
       バカヤロー。 人の云うことが聞けねえのかあ 
       この野郎」
スタッフ  「(か細く)申し訳ありません」
男     「責任者出せ!  お前じゃ話にならン」

○店内
       にいる客・店員の動きがとまる。
       奥から 若い女性スタッフが 姿を現わす。

スタッフ  「(気丈に)申し訳ありません。 何か手違いが
       あったと思いますので お作りし直します」
男     「(睨みつけ)なンだと 思いますので!? 
       俺が違うって言ってンだから その通りの物
       出せばいいンだよ」
スタッフ  「(伝票をみて)ご注文の品は こちらでよろし
       いでしょうか」
男     「ばかにすンじゃねえぞ コノヤロー! 
       さっさとやれよ 女のくせに バカヤロー!!」
スタッフ  「(目に涙をためて)申し訳ありません。 少々
       お待ち下さい」
男     「いつまで待たせンだよ 早くしろよ! バカ
       ヤロー」

○店内    
       静まり返り 外に並ぶ客も 中の様子を覗いて
       いる。
スタッフ  「(笑顔で)大変お待たせ致しました」
男     「ふざけんじゃねえぞ この野郎!]

       新たに作り直された商品 その紙袋を手渡され
       た男が カウンターを離れようとした瞬間 
       男の気をそぐために わざと足元を指差した。

      「あれっ!?」
男     「(驚き 足元を見て)何だよ」

       その時 男の首に下げていた 社員証プレートが 
       胸ポケットから落ちて 一瞬顔を覗かせた。
       男はそのまま 店を出ていった。

○店内
       は件通りの 様子を取り戻し。

○カウンター
      「よく辛抱したね」
スタッフ  「(目から大粒の涙)はい」
      「首から下げていたの わかった!?」
スタッフ  「(精一杯の笑顔で)はい わかりました」
      「赤坂にある テレビ局の社員証だったよね」
スタッフ  「(毅然と)はい 間違いなく そうでした」

       

 怒鳴り散らした男の 身辺調査をした訳ではない。 
あれ程の怒りは あの男にとっては 日常のことなのか
どういう理由で 暴言を発っしたのか 確認した訳でもない。 
小生は この現場に 居合わせただけだった。 
      

                         (了)

12月 28

 中学生の頃から テレビドラマが好きだった。

しかも 劇中深く入り込む見方をして『放映されているこのドラマは 誰が書かれたものか』原作者脚本家まで確認し 言葉の語尾ひとつから情景の描き方まで 気にして観ていたのはその頃からだ。 心の琴線に触れる感動の深さが 圧倒的だった三人の脚本家『倉本聰さん 山田太一さん 向田邦子さん』の作品しか見なくなっていた。テレビ観賞だけでは飽き足らず お年玉や小遣いを貯めて シナリオ本を購入しては読み漁り しまいには 書き写すところまで行き着いた。 当時シナリオ本自体が出回っておらず 札幌のテレビ局にまで問い合わせて 取り寄せたこともした。

 当時通う中学校は 国立大学の教育代用附属校。 

教職課程の学生による 教育実習が毎年行われ 公開授業も頻繁に開催された。 県内外からも来客の多い学校であったにも関わらず 小生の鞄に忍ばせていたのは シナリオ本だった。 そこで出会った財産は 未だに続く多くの交友と「ソシオドラマ」という名称で 生徒主体の寸劇。 名前の由来は不明だが 生徒独自で台本を作成し 全体朝礼の時 寸劇を披露するものだった。 ほんの短い演劇体験ではあったが 制作過程に感動し この道に進んだきっかけだ。

 志が立つ時期 年齢的にも多感な年代。 

三人の偉大な脚本家の作品に 触れられたことは幸運だった。 自分の「根っこ」を育てて頂いたと 誠に勝ってだが今でも感謝している。 さらに倖せなことは 偶然が重なり 敬慕する二人の脚本家に直接お会い出来 お話させて頂けたことだ。 残念ながら 直接お会い出来なかったのは 不慮の事故で亡くなられた向田邦子さん。

かつて彼女は少女の頃 鹿児島にお住まいだった。  

有り難いことに「近代文学館」でその頃の様子を窺える。 書くことに迷いが出た時 向田さんに逢いに行く。 いつの日か 鹿児島発の連続テレビドラマを 放映したいという想いを胸に・・・ 今日も向田さんに逢いに行ってきた。

向田邦子さん居住跡地の碑

城山の麓 居住跡からは 桜岳の麗容「桜島」を眺望できる
日当たり良好は場所だ。

055

 卒業してから 数十年ぶりに訪ねた学び舎。
今でも「人になる教育」を日々実践していた母校は 私の誇りである。

11月 29

 商店街を歩くのが好きだ。
墨田区京島の 橘館通り商店街を歩いていた時 不思議な縁を感じた。以下は回想である。

 

 私があの時 東京を発つ時の出で立ちは 雨靴にヘルメットを被り 防水用の迷彩服のロングコートを身に付けた。 
 行先は 地震の被災地 神戸三宮 瓦礫の上を歩くために。
 
 宿泊したのは 京都のホテルだった。
明日 被災地に足を踏み入れる前の晩 寝付きが悪く 気分転換のつもりで町へ出た。 
土地感はない 近場を歩き 見つけた教会に迷わず入った。 
何をするでもなく ただそこにいた。 

 夜が明けた。
ホテルに戻り 朝食を済ませ 地下鉄に乗り 神戸を目指した。 
通勤客に紛れる自分の姿は 明らかに異様な雰囲気だったが この状況下において 平静を装っている方が 異常に見えたのを覚えている。

 大阪から神戸方面の電車は 不通だった。
しかたなく 南港に行先を変えて 船で神戸を目指した。
 船の乗客は 船室からも人が溢れ 甲板デッキにも 大勢いた。
当時 携帯電話が出始めた時期で 甲板でも 大声で通話している人がいたのを記憶する。

 大阪南港を出港し 神戸の陸地が見え始めた。 
昼間で太陽は出ているのだが 空は鈍よりと曇っていたのは 街が焼け 煙が立ち込め 風が 噴煙を舞い上げていた。
身体に震えがきた。 

 神戸の岸壁は 所々崩れていた。
船が護岸に到着し タラップが下されると 乗客は争うように階段を降りるので 私は敢えて じらす様にゆっくりと歩いた。 
後に続く人たちは その速さに合わせて下りた。

 港から三宮の町は 一か月前とは 別世界で 道は陥没し街路樹は 斜めになり ビルが潰れて 想像を絶した。

 山手側に向い 歩いた。
アーケードが崩れた商店街 大きめの店舗の中で 復興作業をしている 見覚えある年配男性の姿があった。 話などできる状況ではなく 先を急いだ。

 それから一年が過ぎたある日。
新浦安駅前のホテルの地下 ハブというレストランで 偶然にも復興作業をしていた方とお会いし 当時のお話を伺えた。
「三宮の店舗は 初めて店を出した創業店で 被災したことを知り 駆け付けた」と語って頂いた。 その時学んだことは
「被災後には 自転車の後ろに取り付ける荷台が 物を運ぶのに重宝し スタンド付きだと さらに有り難い」と話された。
 決して商売の話はされなかった。 社員と客の 心配ばかり されていた。 今は 懐かしい思い出である。
 
103

墨田区京島にて。

11月 15

 高度経済成長で 人口増加が進み 起伏のある城山を切り開き 住宅団地を造成した。

削り採った土砂は 市内を流れる川伝いに配管を通し 海岸を埋め立てた。
 
 山を削り 造成された団地には 新しく生徒を受け入れる校舎が完成した。
それまで通っていた麓の小学校から 山の上への引っ越し作業が始まった。
 机だけは大人たちが 車で運び上げ 座る椅子は 生徒自ら 自分たちで抱えて運んだ。 
距離にして約1kmだが 路線バスさえ通らない急傾斜の坂だ。子どもたちは 時間をかけ
て運び上げた。 皆 最初のうちは遠足気分で楽しがり ハシャイデいたが 坂のきつさに
立ち止まり 椅子に座る生徒が続出。やがて渋滞を作ってしまい なかなか新しい校舎までは
辿り着かなかった。

 ようやく半日かけて 学校の引っ越し作業は 無事終了した。
翌日には平常通り 授業も再開され 新しい校舎には 子どもたちの声が響いた。
まだ砂利石も残る 充分に整地されていない校庭ではあったが 皆 楽しく走り廻った。

 
 新校舎にも慣れた頃 担任の先生から話があり 『校庭の石ころ拾いをやろう』と提案が
出され クラス全員でやる事になった。

 最初は 広い校庭にクラス全員が散らばり 好き勝手に石を拾い集めていたが 
誰かが「これじゃあ 何年かかるかわからない」と言いだし 再度クラス会議がもたれ

討議された。 不平不満の声が上がった。
「仲良し同士だと 無駄話ばかりして 拾うことをしないから 班を作りやろう」となり 
「広過ぎる敷地を 効率的にしかも 満遍無く拾い集めるには 区分けした方がよい」との
意見で 日程を決めて 広さを区切った。 
「目標を立てながら 拾い集めたほうが 楽しいはずだ」との声で 校庭の石拾いは再開された。

 独自に始められた 校庭の石拾い作業は 他のクラス 学年へも伝わり 
参加者は一気に広がり 休み時間を使いながらの作業は ついに全校生徒に波及した。 

高学年の生徒は 低学年の年下の生徒を 教えながら一緒に作業する。 
一か月もしないうちに 校庭の石拾いは終了した。

 再び担任の先生との話がもたれた。 今でも根っこに植え付けられている。
『人間って勝手なものだよ いつも坐らせてもらっている椅子も 運ぶとお荷物になって

煩わしい。 みんなで遊ぶ校庭も 遊んでいる時には 広さは感じないけど 
石を拾うと なんでこんなに校庭って 広いンだろうって思う』 

 小学生時代 毎日欠かさず書いていた 担任の先生との交換日記。
その中に 赤鉛筆で記されてある 恩師の筆跡が残る。
 小生はいま一度 この国に対して 往年先達たちの教えに戻らしめ
国の主軸たるは何なのかを 問いかけたい願望が ほとばしるほどある。
 人の姿勢を生み出す郷中教育は 今でも根っこに 植え付けられている。

公園となった 小学校跡地。

椅子を抱えて運び上げた 小学校跡地。

嘗て 鶴丸城を守る裏山の城山は 防御のため武士を配置し 山城が形成され そこは 夏蔭城と呼ばれた。

   嘗て 鶴丸城を守る裏山の城山は 防御のため武士を配置し 
山城が形成された。 そこは多くの樹木に覆われ 涼しい所で 夏蔭城と呼ばれた。

11月 10

 乃木坂にいた 叔母が 他界した。

遊びに行く度 いつも笑顔で迎えてくれて 包み込むような優しさは 忘れられない。

『よい ご本があるのよ』と電話をくれた数日後には 届けられ 二人で本の話に費やした時間は 実に愉しかった。

 札幌 仙台 東京 広島 福岡と全国を巡り 献身的な歩みは 感謝の心と 裏表のない 生き方だった。
若い時 仕事中に 手の親指の先端を 誤って切断する不運に 見舞われた。
『この世の すべてを 受け入れてごらんなさい。 自分がみえてくるわよ』と語った言葉の意味が 心に沁みる。

 あの日も いつものように 会いに行った。
『久し振りだから 讃美歌を聴きながら 話したい』と わがままを云い 部屋で二人きり CDをかけながら 2時間程話して別れた。

それから 1週間も経たない日 訃報が届いた。
天に召された顔は 生きているように 穏やかな表情 シスターだ。

乃木坂 叔母のいる坂道。

乃木坂 叔母のいる坂道。

11月 08

 書が好きで 子どもの頃から筆に親しんでいた。 好きが高じて 筆耕(ひっこう)の職に就いた時期もある。

 

「筆耕」とは 

①写字などにより報酬を得る事。②文筆により生計をたてる事。とあるが小生の場合は 葬儀・婚礼時のいわゆる看板文字書きだった。

 勤めた先は 割と大きめの花屋で 婚礼部門と葬儀部門があった。 婚礼時に書く仕事は 土日祝の前日までに仕上げる事が一般的だが 葬儀の場合 友引(ともびき)前日以外は ほぼ毎日書いていた。なぜなら友引の日は 火葬場が休みで 書く仕事が無いのだ。

 

 書く対象物の大きさは 花屋の店先で注文を受けた 花束に添える名刺ほどのカード書きから 葬儀会場入口に設置される 20尺(縦約6m・横約1m)の大看板に 棺の蓋や骨壺もあった。 何とも往生したのは 連絡の不徹底で 御遺体が安置された棺の蓋に 書かなければならなかった時である。 既に祭壇に飾られ 親族も揃った式間際 了解を得て蓋を開け 全員の注目を浴びながら書いた時には 生きた心地はしなかった。

日頃 書く量が一番多い物は 祭壇の両側を飾る 生花(菊の花籠)に据え付ける名札で 多い時は 日に400枚以上書いた時もある。 他には 葬儀場所を指示する道案内の 通称「捨て看板」に 珍しいものでは 米粒にも筆書きした。

 筆耕は 急な対応にもその場で対処する為 お通夜の式場に 筆と墨を持参し出向く。

お通夜開始が夕方18時直前になり 「付け花」と呼ばれる祭壇に飾る花籠が 方々の花屋から次々と会場に届けられる。 名札には送り主の名前が記されてはいるのだが その文字は千差万別で 一緒の祭壇に飾ると文字が逆に目立ち 統一させるために 書き直す必要が出てくるのだ。  身内親族にとって葬儀式とは 時間の流れが尋常な時ではない。 人間の研ぎ澄まされた 悲しみの五感が極端に鋭くなっている。 式に携わる側の人間も 肌で感じる為 表情感情を出来る限り抑えるが お通夜開始時刻寸前になって「付け花」の文字を書き変える段階では 一分一秒を争う忙しさだ。 それまで冷静に振る舞ってきた人間が 一転して慌てだす瞬間を幾度となく見てきた。 「忙しい」という文字が 心を亡くすと書く意味が はっきりと分かる瞬間でもあった。

 

「筆耕」の日常は至って平凡 ただひたすら筆で文字を書く。 その繰り返しの日常で思いついた事があった。  

 長年筆耕を続けてきた人間であっても 縦書きで何枚も文字を書いていくうちに 字列が左右どちらかに傾いてしまう。 歪みを防ぐ為「あたり」と呼ばれる枠点を付け 書いていくのだが これでは 急ぎの時など時間がかかる。 その時 小生は考えた。 片目(利き目)を閉じて書いてみたらどうだろう。  周囲の奇異な目も気にせず 片目書きに没頭した。 これは 人には「利き腕・利き足」があり「利き目」もあるはずだから きっと利き目で見る力の方が 強いはずだと考えたのだ。 小生は右目が利き目なので 両目で見ていても 右目で強く見ている為に 文字は左に歪んでしまう。よって左目だけで書く訓練を始めた。 最初はぎこちなかったが 慣れると案外楽に書け 考えていた通り何枚書こうが 文字が歪む事はなくなった。 当然「あたり」の枠点を付ける事もなくなり 他より俄然書く速度が増していった。

 

 この利き目を閉じて書く事を体得したら 不思議な事に 丸い円を正確に描けるようになったのには驚いた。 丸く描いた円に コンパスを当て確認すると 完全な円形を成している。 試しに正三角形を書く練習を続けたら 見事にその形を正確に描けたのだ。 この事象は かつて古代ピラミッドを造った人が 当時高度な測量技術を持たずして 正確な正三角形を創り出せた技ではなかったのか。 世界の七不思議の一つは 利き目を閉じる事により 成し得たのではないかと直感した。  一読された方…利き目を閉じる事など 時間は要するが 試してみる価値はある。

 

 ここに於いて 書き記しておきたい事は 七不思議を解く鍵だとか ピラミッドの測量技術の話ではない。 人には 利き腕・利き足・利き目があり 知らず知らずのうちに 人間の身体機能を 片方しか使わず生活している危険性を問いたいのだ。 人間誰しも楽な方を望む 利便性の追求は今後も 世界の文明に寄与するだろうが 最も難しい 人の意識を変えるヒントは 日常の何気ない行動の中にも隠されている。

「筆耕」時代の筆

「筆耕」時代の筆。

 米粒にも書く依頼があり その時使用した筆は 鼬(イタチ)の毛の筆を好んで使用した。 

当時試みた事は 棒に大筆を括り付け 立ったまま文字も書いた。 左手書きに両目を閉じて書くなど 今 思えば かなり破天荒な「筆耕」時代であったが 人間 自分に負荷をかけて訓練すれば 大抵の事は出来るものだ。 その時学んだものは 出来るまでやれば 必ず出来るという 単純な答だった。

8月 15

湊町に残りし井戸

 古く歴史のある港町で 海からは少し中に入っている。
かつては その地方の経済を左右していた程 町には活気が溢れていた。 毎年恒例の夏祭りでは 京都の祇園祭りを彷彿させる山車が繰り出し 黒山の人だかりがあったという。 特産品として 海から上がった魚を使い すり身にして油で揚げる「つけあげ」は絶品である。

 この湊町に91歳の重爺と85歳になる波江婆夫婦がいる。
二人は若くに所帯を持ち 三人の健やかな子に恵まれる。 家計を支えたのは 畑と米作りの水田に蜜柑山だった。
身体頑強な重爺は 冬でも夏でも 毎朝4時には起きて畑仕事に出る。 一仕事終えると 家に戻り朝御飯を済ませて 今度は蜜柑山へと向かう。 急傾斜な山肌を開墾 登り降りを繰り返し石垣を積み上げ 蜜柑の生育に苦心した。 骨身を惜しまず働くとは まさに重爺の姿そのものである。

 一方 長年寄り添う波江婆は 畑仕事を手伝いながら 町の「つけあげ」をつくる店に出た。
二人の家に行く度 この「つけあげ」が出てきた。 その味はどこのものよりの美味しく 忘れられない極上だった。
残念なことに 波江婆が働いていた店も 閉店してしまい その味も廃れてしまった。 

 
 二人が旅行に行くと云うので 市役所へ申請の手続きに付き添った。その帰り道の事である。
91歳にして身体頑強な重爺と 85歳 年老いても美しい波江婆が 口を揃えて云う。
「わしらは 後期高齢者か? 前期高齢者か? 日本には長寿という言葉があるだろう。 どうして 人をいたわる言葉を使えんのか!」

返す言葉は 無かった。

7月 26

路面電車のある風景

 一つ違いの妹 栞(しおり)は 姉の英(はるか)の先を早足で歩いている。 家から路面電車の始発駅まで続く 真っすぐな田圃の畦道。
二人は朝出がけに 何気ない事で言い争いをしていた。

○食卓・丸い卓袱台(ちゃぶだい)

英  「制服を着る前に 食事しなさいよ」
栞  「(むせて)うっ!」
    
    味噌汁の具を噴き出す栞。

英  「ホラ こぼした」
栞  「英姉ちゃんが 変な事云うから汚れたでしょ」
    
    慌ててスカートの吹きこぼしをふき取る。

英  「自分が悪いのに 人のせいにしないでよ」
栞  「もおー 今朝は早く行かないといけないのよ」
   
    普段着の英が 無言で食事をし始める。
    母は板場の炊事場で 黙って弁当を作っている。 
    背広姿の父は 娘たちの白いハンカチを 炭入り
    アイロンで皺を伸ばしていた。

 妹の栞は高校一年で バレーボール部に入部して間もない。 一つ上の姉とは同じ学校で しかもバレーボール部の先輩後輩にあたる。
県内でも有数の強豪チームは そこでのレギュラーの座を巡り 熾烈な競争があった。 

 上級生の練習は 授業が終わった放課後 存分に出来るのだが 入学して間もない新入部員たちは その時間はまだ球拾いしかできず まともな練習をするには 朝の授業が始まる前の僅かな時間を使うしかなかった。

英  「(高圧的に)制服は学校の誇りよ 汚すのは恥だからね」
栞  「(仏頂面で)そンなこと云ったって わざとじゃないもン」
英  「着替える前に 食事すればいいのよ」
栞  「急ぐのよ」
英  「慌てたって ろくな事にならないわよ」

    意地を張り合う二人の言い争いはきりがなく 
    居間でアイロンがけを終えた父が 見かねて
    二人の間にハンカチを放り投げた。

栞  「(むくれて)父さん ありがとう」

    と言い残し 慌てて玄関を後にした。 
    卓袱台には 母の作った弁当箱が二個並んでいる。

英  「しょうがない 持ってってあげるか」

 姉妹の通う学校には 連綿と受け継がれている三つの伝統があった。

1つ 挨拶をする時。 
 挨拶とは まず相手よりも先に行う事を基本とし 自身を相手に向けて立ち止まらせ お辞儀をするという慣習である。
その所作は何時いかなる時であろうと 一旦立ち止まり相手の目を見て行われる。 学校内での日常 教師に対しては勿論 部活動の先輩 来客者にもその仕草 立ち振る舞いの動作は行われ 充分に気を張っていなければ 叱責が飛ぶ。 
校内では声を出して挨拶されるが 校外で学校関係者に出会った場合には 立ち止まり黙礼だけのお辞儀だ。
 校内行事で 全体の朝礼が行われる体育館に 全校生徒が集まり学校長が壇上に上がる。その時 校長に対し正坐している全校生徒は 一斉に頭を垂れて深々とお辞儀をする。 その一糸乱れぬ美しい動作は 全員の呼吸が合わなければ成し得ない。 生徒数はゆうに1千名を超えている。

1つ 昼の清掃時間の時。
 昼食を終えた生徒たちは休憩後 校内外の掃除作業に入る。各々が教室・廊下・階段・通路・トイレ共有部分と学校周辺に散らばり清掃する。 清掃作業は極一般的だが 他と明らかに違うのは 清掃時お喋りしてはならないのである。いわゆる寡黙修練と呼ばれるもので 無言のうちに塵を掃き清めていく。 その時言葉は必要無く 淡々と一連の作業は行われていく。
いつもは賑やかな女子高にあって その時間だけはまったく静寂の時だ。 音はといえば 庭を掃く竹箒の音にトイレを水で流す音ぐらいで 生徒がいるにも関わらず深閑とした校内である。

1つ 別名が名付けられる。
これは運動部に限ったことで 先輩連中が入部したての新入生一人一人に 第一印象でその子に目指してほしい漢字一文字を付ける。 例えば素直に育ってほしいとイメージされると「直(なお)」となり その新入部員は本名ではなく「直(なお)」さんと呼ばれる事となり これが三年間続く。 栞に名付けられたの名前は「咲(さき)」であった。

○路面電車(車内)・夕暮れ
英  「(小さな声で)もう部活は終わったンだから 坐っていいわよ」
栞  「(無理して)いい 立ってく」
英  「じゃあ そのバッグ膝に乗せなよ」
栞  「(ためらいつつ)うん ありがと」  
    
    車内は帰宅帰りの乗客で満員に近かった。

○路面電車(車窓)・茜空を映す
    
    満員の中 老婆がよろけて 栞に当たる。

老婆 「(か細く)ごめんなさい」
英  「(すかさず)どうぞ 坐って下さい」
    膝に抱えたバッグを栞に渡し 席を譲る。
老婆 「ありがとうねえ」

○車窓
   海から聳える山に 夕焼けが紅く染まって。
                 
                       (終)

085

6月 07

 この土地の話を 少し記そう。
鎌倉時代 源頼朝に仕えた丹後の局。 頼朝の愛を受け二人の間に子が生まれるが 頼朝の御台所(正妻)政子の嫉妬を怖れ 丹後の局は遠く鎌倉の地より船と陸路を使い ここへ移り住んだという伝説が残る。 その時 丹後の局はこの辺りの景色が 鎌倉の地形に似ていることに驚いたそうだ。 実際この辺りには 鎌倉にある七社を分霊し祀った神社が方々にあり その内の一つ 社(やしろ)の名前は鶴岡八幡宮である。

 湯之元駅西側の踏切を渡り 「鶏の刺身屋」を過ぎ上へと昇る。 長く急勾配の傾斜が続く坂道は 歩く人の姿はめったに見られず たまに行き交う車も 下から登るスピードは止まってしまうのではないかと思うほどの坂道だ。 木々に覆われた斜面 その僅かな隙間から眼下の町を見下ろせ 風 薫り 光り降り注ぐ美しい眺めである。 曲りくねった急坂の道 長い一本道がようやくゆるやかになると 遠くの山並みまで見渡せる開墾畑が広がる。 右手には茶畑が見え始め 農免道路へ突き当たり右折する。日当たりのよい傾斜地に数個の集落が見える。 周囲を高い杉の木が取り囲み 小さな畑が点在している所に行男さんの家はある。

 玄関を覗くと 例の如く小振りの伝言板に 見慣れた『畑です』と書かれた文字。
来た道を後戻りして 行男さんのいる畑へと向かう。そこは杉の木立を伐採し 土を均(なら)して耕作し 先祖代々受け継がれた土地に行男さんはいた。 朝日と共に目覚め 昼間はこの畑で野菜作りに精を出し 日没になると家路に就く。 自然の中での営みを 生まれた時からここで続けてきた。
 
 藁を燃やし 霜除けの準備に没頭している背中から声をかけると「ほおーう ようやっと蔓棚が出来上がったあ」と云って 炭に塗れた顔を綻ばせた。 せっかく来たのだから 家でお茶でも飲んで行けと誘われ もう一度家まで戻る。
 日当りのよい玄関の前で待っていると 行男さんがお茶を持ってきて「これなあ 波布茶(はぶちゃ)だから 身体にいいぞお 何杯でも呑んでけ」と勧めた。
出されたのは ハブソウの種子で決明子(けつめいし)を炒った薬用のお茶 健胃薬にもなり解毒の効果もあるのだと教えてくれた。
ほのかな香りが香ばしく 行男さんは緑茶に混ぜて毎日飲むという。

 野良仕事をしない時には 火を熾(おこ)すための薪を採りに山へ入る。 集めた薪を束ね 山に生える金竹(きんちく)を削いで結び天秤にして担ぐ山鉾棒に突き刺して運び出す。 持ち帰った薪は 焚き上げ具合の用途によって分け 納屋にうず高く積み上げられている。近くには温泉もあるのだが 湧水を引いてきて その水で湯を沸かし毎日風呂に入っている。
「夜なあ 湯船につかって窓を開けると 月明りに照らされた山並みがさあ なンとも云えんのよお」としみじみと語ってくれる。

 庭を彩る木々に花々は すべて行男さんの手により丹精込めて育てられたものばかりだ。
その中でも 一際異彩を放つものは「おきな草」という可憐な花。 地面から僅かな所に花芽を付けて 白く柔らかな毛で覆われ 白髪の翁を想起させることから「おきな草」の名前が付き 絶滅危惧種に指定されているらしい。
「ほら そこンとこにも 芽が出てきよった」と指差す先 玄関へ入る坂道の石垣塀の下に「おきな草」花壇がずらりと並ぶ。綿毛に覆われた新芽は 節分を過ぎ暖かな陽射しに誘われ 小さな蕾を覗かせていた。

 「花芽がつくだろ そしたらこの子ら ほんの少しだけ背が伸びる。 でもな その花芽が出ても みんな下を向いたままなンだ。暖かくなって蕾が花開きだして ようやくこの子らは顔を上げる。 そこンとこが たまらなく意地らしいちゅうか たまらンねえ」
そう云うと行男さんは 「おきな草」の柔らかな綿毛を優しく撫で上げた。

 私は この行男さんの歩んできた人生はわからないが 一緒に居させて貰うだけで ありがたい。 生活の中に生きる知恵があり 物を生み出す創造力は 自然から学び取っている。
「なーンもお 慎ましやかな生き方だあ」と言い放つ行男さん その表情は実に清々しく また逢いたいなと思ってしまう。

軒下 おきな草
<軒下花壇に並ぶ 「おきな草」>

裏の白菜畑におきな草
<裏の白菜畑にも「おきな草」>

柴に山鉾棒を刺す
<金竹で束ねた柴に 山鉾棒を刺す>

金竹で結ぶ焚き付け用の柴
<金竹で結んだ 焚き付け用の柴 重さは一つ約10kgにも及ぶ。>

012
<束ねた柴は 山鉾棒を差し込み 天秤担ぎで運び出す。>